morishimayuki


小室哲哉(誕おめニコニコ) - YouTube

 

苗字が変わる予定なので、それに合わせて、tominagayukiからmorishimayukiにしようかと考えている。

nakanakajiに戻そうかとも考えたけど、フェイスブックの都合と、本名の方がいいかな、そういう時代かな、と思ったので。

フェイスブックの都合はどうでもいいことなんだけど、抑制した方がいいかな、本名で、リアル知人とかが見て拙いものは、ネットにアップしない、調子に乗らない、という自制の意味を込めて。

 

友人からのオススメ音楽をユーチューブで検索して、再生リストを作ってみた。何度か聞いている。こういうのは、最初はよく分からないことが多い。何度も聞き直して、耳に馴染むまで聞いてみる。

僕が今、オススメなのは、小室哲哉(誕おめニコニコ) - YouTubeで、小室哲哉さんが誕生日の日に放送されたニコニコ生放送のライブ。

生ピアノ、そしてDJプレイ。全て即興演奏らしい。

小室哲哉さんのピアノ演奏が、ピアニストのそれではなく、シンセサイザーの弾き方なのが、見ていると感じられる。

あと、DJプレイでは、何台ものシンセサイザーを同時に演奏しているのだけど、僕も、iPhoneで一度に四つとか、シンセAPPを操作して、リアルタイムレコーディングすることが多いので、見た感じのダイナミックさは違うけど、だいたい同じような感じで曲を制作しているので、見ていると参考になる。

ピアノにしても、シンセサイザーにしても、小室哲哉さんは、楽しそうに演奏していて、いいなぁ、と思う。

 

技術的なこと、センスなどの差は、当然、雲泥の差なのだけど、僕が電子音楽を作る時も、ああいう感じで、案外、せわしない。

 


Mathematical Breakdown Of A Non-Repeating Phenomenon by tominagayuki - Hear the world’s sounds


Co-Orbital Moon by tominagayuki - Hear the world’s sounds

 

今日は休日でぼっちなので、読書をしようと思ったのだけど、その前に、ユーチューブの再生リストを整理して、今までiPhoneにダウンロードしていた音楽動画を削除して、空き容量を増やしてみた。音楽を制作していると、iPhoneの容量がなくなってしまうので。

ユーチューブの再生リストをいくつか作ってみて、面白かった。

自分の音楽以外でも、オススメ音楽動画をリストにしてもらえば、それをフォローするだけで聴けるし、いろいろ使い方がありそう、って、そんなこと、ネットでは常識かな?

 

ちょっと抹香臭い(?)話が続いたので、ドライに創作の話をしようかな。

僕が写真を撮る時、音楽を制作する時、ほとんど、何も考えていない。言葉では、考えていない。多分、感じている。感覚とでも言えばいいのか。

今、小林秀雄さんの「近代絵画」という本を読んでいて、最後のほうまで読み終わって、今は、ピカソのところ。

 

フォルムの話になって、それはよく分かるなぁ、と。

小林秀雄さんは、多分、フォルムとスタイルの違いについて書いていて、スタイルは思想、イズムと言ってもいいけど、それは、小林秀雄さんに通底しているテーマの一つで。

 

物を物として見る、というのは、物のフォルムを見ているわけで、それだけで事は足りる。

画家というのは、物のフォルムを芸術のフォルムとして作品で描いている。

フォルムというのは、今の時代では、形式主義だとされて、軽んじられているけれど、それは、主義でも思想でもない。

つまり、僕の言い方をすると、スタイルではない。

 

そうなってくると、語り合うことは、あまりなくなってくる。

見ればいいわけだし、聞けばいいわけだ。

世界や愛や祈りについて、言葉で語り合う必要はなく、むしろ、それは、本質から遠のく行為になってしまう。

例えば、フロムさんの「愛するということ」という本を読めば、ほとんどのことは語られている。僕はそこに、何かを付け足すことも、削除する必要も認めないので、読めば、愛について、そこにほとんどのことが書かれているだろう。

理解は、読み手次第である。

 

ユーチューブ、及び、圧縮音源では、失われてしまうディテールがある。

つまり、それは音質であり、フォルムなのではないだろうか。

音楽というのは、音を聴くもので、それは、言葉ではないだろう。

 

僕が写真を撮る時、音楽を演奏する時、大事なのは、フォルムで、見たものを見えたように写っていればいいのだし、聴こえているように聴こえればいい。

ただ、写真にしても、音楽にしても、加工しているし、録音再生された音は、リアルタイムの音とは異なる場合が多々ある。

それに関しては、厳密にやっていない。

気にすらしていない。

結果オーライ!

要するに、手を動かせばいい、頭を動かすのではなく。

土をこねるようにして、現れてくるもの。

即興で現れてくるもの。

それでいいのかな、と思っている。

僕は、完成度をさほど求めてはいないだろうし、それがいろんな意味で、リアルだとも思うから。

 

 

ポケット東京

ポケット東京

 

 

今の僕の写真を、「ポケット東京」のようだと言っている友人がいて、意外だった。

僕は、この写真集の存在すら、忘れかけていたぐらいで、気にも留めていなかった。

一時期、「ポケット東京」を目指していたのだけど、挫折して、以来、何も考えずに、何の目標もなく、ただ、撮るのが楽しいから、という理由だけで、空や花などを撮っているだけのことだった。

友人に言われて、「ポケット東京」を見返したりする気が起きない。

それぐらい、僕は、自分の写真に興味がない。

 

実際、僕が今の自分の写真で言葉に出来ることは少ない。

それらは、すでに、noteのエッセイである程度は書いているし、僕は複雑なことなどしていない、撮る時に苦労した覚えもほとんどない。

つまり、今の僕の写真なんて、誰でも撮れると思っている。

となると、「ポケット東京」も誰でも撮れるのか?

多分、センスやレベルはともかく、誰でも撮れるんじゃないかな、とさえ、今の僕には思えるところがある。

ここまで考えて、ああ、自分は変わったんだろうな、ということに気付ける。

 

以前の僕は撮れなかった。

今の僕は撮れる。

その違い。

 

多分、今の僕は、フォルムだけで十分だと考えている。

以前の僕には、余分なものがあり、それは、端的に言えば、自分なのだが、自分を捨て去っただけのことであった。

なので、邪魔で余分な自分に執着しなければ、誰でも撮れるのではないだろうか?

これは、いわゆる自己表現とは違う。

ただ、フォルムをやればやるほど、自分のフォルムとでも言うものを自覚するようになるだろうし、それを捨て去ることは出来ない。

それを個性と呼べば、個性なのかも知れない。

僕は、余分な自意識はいらないと思っているけど、それは、自己否定ではない。

誰も、自分を放棄することなど出来ないのだから。

 

さらに言えば、ここまで書いてくると、今の僕の写真は、誰でも撮れるわけではない、とも言えるのだろうけど、すでに、僕は、そのことに興味があまりない。

撮れようと撮れなかろうと、どうでもいいことで、もし、撮りたいという人がいたら、ある程度の説明が出来るぐらいの話で。

僕は、自分の写真はどうってことないものだと思っている。つまらない写真とすら思える時がある。

ただ、以前に比べて、ウケがよくなった。誰も僕の写真を理解出来ないとは言わないし、褒められる時も増えた。

だから、よくなったんだろうなぁ、と思うばかりである。

 

正直、今の僕の写真を貶す人がいることが想像出来ない。

こう書くと、自信満々だと思われるかも知れないけれど、今の僕の写真に、貶される要素はないんじゃないのか、と思っている。

ただ、僕は、空を撮って、花を撮って、それだけの写真で、そこに、見る人を不快にさせるものはない、と思うから。

空が嫌いな人、花が嫌いな人ならば、仕方がないと思う。

 

音楽に関しては、今回、だいたいの曲、手抜きで作った。

手間隙をかけず、あっさり風味。