愛するということ
Lend Aid(First Session MIX)feat.Len by tominagayuki - Hear the world’s sounds
Lend Aid(Moon Done MIX)feat.Len by tominagayuki - Hear the world’s sounds
- 作者: エーリッヒ・フロム,Erich Fromm,鈴木晶
- 出版社/メーカー: 紀伊國屋書店
- 発売日: 1991/03/25
- メディア: 単行本
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愛するということ、この素朴で根源的な問いに応えようと、幾分か、時間をかけて、考えてきたが、頭の中は堂々巡りし、形を見せない相手に苦戦するような、霞を掴むような塩梅で、先日、エーリッヒ・フロムさんの「愛するということ」(懸田克躬さんが訳したもの)を古本屋で見つけて、参考になればいいなぁ、と思って、200円で購入して、先ほどまで、6分の1ほど読み進めていた。
もともと、「愛するということ」はNHKの番組「100分de名著」という番組で取り上げられていたのをきっかけにして、知った本であった。
<僕による勝手な要約>
人間というのは、孤独によって引き裂かれている。
孤独は人を狂気へ、破壊へ陥れる。
この孤独を回避する方法が、原始時代における儀式であり、集落での周期的な儀式は、人々の孤独を回避する最良な方法であった。
複雑化した社会における「平等」は、無個性の同一を意味し、それは、差異を個性とする時代の到来でもあった。
太古における祭儀的繋がりは失われ、それは、孤独を回避する最良の方法が失われたことを意味する。
人が孤独を回避する方法を、フロムさんは三つの行為に分けている。
・依存(アルコール、薬物、性的などによる依存)
・社会的祭儀
・創造行為
それらは、一時的なものではなく、一時しのぎにしかならない、と考えられている。
では、永続的に孤独を回避する方法と言うと、自立した愛である。
愛とは技術である。
愛とは与えることであり、与えることで自然と与えられる行為である。
愛とは、犠牲的行為ではない。
<「愛するということ」を6分の1まで読んでみての要約終わり>
自立した愛とは、僕の中では、難しいことではないと思われる。
自立した愛とは強要でも強奪でもない。
依存でもない。
自身の心を広げることで与える他者の影響であり、また、そのフィードバックなのではないだろうか。
僕の息子になる予定の彼(Len)が、音楽に興味があるようで、必要最低限の使い方を教えて彼が自発的に演奏して録音した曲が2曲ある。
この記事の一番上に貼り付けた曲である。
10歳になるLenは、僕がiPhoneのシンセアプリを弄くっているのを見て、興味が湧いたらしい。
僕には音楽的知識がないし、あれこれ言うのは好まないので、好きに演奏させて、後でミックスして、サウンドクラウドにアップしてみた。
僕は、Lenに音楽の才能、特にドラムの才能があるだろうことを、すぐに直感した。
さらに、Lenは、人からあれこれと手ほどきを受けて覚えることよりも、自分の好きなようにやってみることでのめり込み、上達していくタイプだとも感じた。
実質的には、今まで、彼に「音楽」を与えたものは、多分、居なかったように思われる。
音楽とはドレミではなく、当然、楽譜でもない。音楽とはメロディーではない。
分かりやすく言えば、音楽とは聴覚を用いた世界表現の手段である。
だから、正解などなく、優劣もない。ルールに縛られる必要もない。彼は彼の趣くままに、音を奏で、音を楽しめばいい。
僕は果たして、彼に「音楽」を与えたのだろうか?
僕は、楽器がないのはかわいそうなので、KORGの電子ドラムを誕生日にプレゼントしてみたらどうだろうか? と彼の家族(僕も家族の一員にさせていただく予定の人々)に提案してみた。
僕は、彼に「楽器」を与えてみようとは考えているけれど、「音楽」をそこまで積極的に与えようとは考えていない。
ただ、僕は音楽が好きで、彼と一緒に遊び、やりとりする一番積極的で建設的な方法は音楽なのではないだろうか、と考えているだけである。
Lenには落ち着きのないところがある。
それは、飽くなき好奇心と、自発心と、率直さの現われなのではないだろうか?
彼は今、今時の小学生らしく「妖怪ウォッチ」のTVゲームに嵌っていて、家族が心配しているのだが、それで彼の自発心が満たされるとは、僕には思えない。
音楽は世界であるがゆえに、自由である。どのようにドラムを演奏してもいい、という自発的、能動的自由が、Lenに相応しいように、僕は感じている。
Lenに「音楽」を与えてみようと考えたのは、ただ、彼がそれに向いていると思ったからで、僕が音楽を独学でやっているというそれだけのことであった。
それで、電子ドラムをプレゼントしてみて、Lenがドラマーに目覚めたとしたら、僕は親愛なる音楽仲間を見つけたことになる。
一緒にセッションしたり、音楽を聞いたりして、共通の楽しみを分かち合える。
もし、Lenが電子ドラムにすぐに飽きたら、僕が借りて、音楽制作に使えばいい(Lenにはそのこともすでに言ってある)。
僕はLenに子どものおもちゃを与えようとしているのではなく、大人である僕が欲しい電子ドラムを与えようとしている。
これは、ただ、与えるだけの関係ではないし、献身や犠牲とも異なる関係だろう。
強要でも強奪でもあるまい。
僕はこれまで、そういうことを、愛と名づけなかっただけで、今後も名づけるつもりはない。
言うなれば、これは、恵みである。
自分には与えられるものがある。それを欲する人がいる。だから、与えるだけである。
そこに無理はない。それは、自発的で、自立的な行為であろう。
それが欲しいと願う人がいる。欲し、得られることで満たされる。満たされることで幸福になり、この幸福は、与えたものにもやがて返ってくるだろう。
善行は他人のためならず。それは古くから当たり前な考えだったと思われる。
とある深夜、Lenの祖父はパテシエで近所の人たちや知り合いなどの為に、自宅のキッチンでクリスマスケーキを10個ほど作っていた。
これらのホールケーキは、金銭のやりとりなく、無償で贈呈される。
祖父にしてみれば、それは、特別な行為ではなく、ごく当たり前な行為であり、愛や優しさと言われれば当惑するであろう自発的な行為であることは、自明なことである。
祖父は日ごろ、自分や自分の家族がお世話になっている人々への恩返しで、自分が出来て、相手が喜ぶであろう最良の方法を実行しているだけのことなのだから。
一つ、笑い話がある。
何年か前の話なのか、祖父の手作りケーキを食べてきたLenは、学校の給食で出されたケーキを食べなかったそうである。
どうして食べなかったのか、聞いてみると、あれはケーキではないから(不味くて食べれなかった)、と答えたそうだ。
それは、僕からすると、Lenが正しい。祖父のケーキを平均的なケーキとするならば、市販のほとんどのケーキはおよそケーキとは呼べまい。
それは、そのまま、祖父が受けた愛と言うことも出来るだろう。