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Death To Birth(mika1161 - Michael Pitt Cover)TY+Wub Machine Remix by tominagayuki - Hear the world’s sounds


Death To Birth(mika1161 - Michael Pitt Cover)DEATH&REBIRTH MIX by tominagayuki - Hear the world’s sounds

 

mika1161様へ

 

リミックスしてみました。

元は元、これはこれ、ということで。

 

お電話、ありがとうございました。

わたくしのテクノを褒めてくださり、とてもうれしかったです。

ダークマターは、同級生の友人二人にもプレゼントしたのですが、彼らも、普通に音楽してるじゃん! と驚いておりました。

ようやく、普通の音楽を作れるようになってきた今日この頃なのかも知れません。

 

救済、救い、ということで、私見を述べていきます。

mika1161様はお医者を目指しておられるので、わたくしとは違う職業意識なのかも知れませんが、わたくしは、医者だから人を救える、医者じゃなければ人を助けられない、ということはない、と考えております。

わたくしは、来年から、工場勤務に転職したいと思っていますけど、そこでの仕事も、社会のため、誰かの役には立っているでしょう。

医者は立派な仕事だと思いますが、工場勤務も仕事という点で、一緒だと思っています。

 

救済、救いというものは、意識すればするほど、めんどくさく、矛盾し、不幸になってしまうように感じています。

そもそも、わたくしのような人間に、他人を救えるとも思っていません。

ただ、一生で一人、救えればいい方だと思います。

 

救済、救い、というのは、主に、魂の救済、というところに行ってしまいます。

そうでなければ、祈り、という言葉は出てこないと思いますので。

青いカバ、もそうかも知れません。

では、魂の救済とは何か、というと、それは、宗教であり、信仰心なのだと、わたしくは思います。

本来、それは、宗教が担っていたものです。

 

青いカバ、というのは、多分、仏教で言うところの「業」みたいなものなのだと思います。

 

仕事を一生懸命にする、それだけですでに、社会に貢献しています。

だから、仕事をして、家庭を築く、という人並みのことがすでに、世界のためであり、世界を救済していることになるとも思えます。

人並みになること、人並みでいることがすでにして、救済なのではないでしょうか。

と言われて、納得出来ないのであれば、それは、魂の救済ではないからでしょう。

心の救済ではない。多分、mika1161様は、魂の救済のお話をされているように感じています。

 

人の役に立ちたい、世界を好きでいたい、救済、ということで言うと、近所を掃除したらいいと思います。

宮崎駿監督は、休日になると、近所の川などを掃除しています。

近所の幼稚園を訪問したりもしています。

自分の身の回りでやれることをする。

 

わたくしは、もてなし、ということを意識しています。

わたくしと関わる中で、出来るだけ、相手に不愉快なものを与えない、持ち込まない。

わたくしは、それだけでいいのだと思っています。

あと、わたくしは、ソフトバンクで、毎月10円、募金しています。

 

救済、となると、話はとたんに抽象的になります。

抽象的になって、哲学的になって、話は普遍的、かつ、全体の話になりがちですが、そうなって、話はややこしくなり、無自覚のうちに、捩れていきます。結果、混乱して、本筋を見失ってしまう。

 

毎月一回でもいいから、近所のごみを拾う。

毎月少しでいいから、募金する。

それも当たり前に。

それだけでもいいと思います。

毎日、規則正しい生活を送って、一日一善を心がける。

救いたい、とか、そういうことではなく、当たり前にやれることを、当たり前にやる。

それだけで、世界はほんの少し、よくなるのではないでしょうか?

 

わたくしは毎日のように、10歳の息子になろうとしている少年のことを考えています。

わたくしは彼に、何かをしてあげるのではなく、当たり前に接して、当たり前にいる存在で居られれば、それだけでいいように思われます。

彼のことを理解し、彼の心情を察して、求められれば応じる、求められなければ黙する、いつも半歩下がって見ている。父親としてよりも、人と人として関係出来ればいいと考えています。

 

彼はどうやら、特別な人間のようです。

普通の10歳の子どもとは違う。

でも、わたくしは、普通の子どもというものが、よく分かりません。

なので、彼を理解し、彼に不快なものを与えない、持ち込まないようにすればいいのだと思っています。

 

彼は発達障害で、学習障害もあり、喘息などのアレルギーもあります。

わたくしがまだ分かっていないいろいろなこともあるでしょう、きっと。

彼は、小学一年生の時、調べてみたら、IQ180以上あったそうです。

また、全ての音が等しく聞こえる耳を持っています。

多分、天才です。

天才とは、普通ではないですから。

 

わたくしが彼に音楽をやらせてみようと思っているのは、彼には音楽の才能があるからで、教えるつもりはありません。ただ、きっかけを作ってあげよう、と思っているだけです。

彼に音楽の才能があることに気付けたのは、わたくしが音楽を続けているからで、このことも含めて、音楽の恵み、と言えるのかも知れません。

 

音とは世界であり、世界とは音です。なので、音楽とは、世界を表現することです。

彼はそのことを理解出来るでしょう。そして、音の一つ一つの意味や存在を知るきっかけとして、音楽をやってみること、世界の整合性と調和が養われればいいなぁ、と考えています。

音に耳を澄ますこと、音色の質を捉えること。

 

わたくしは、音楽を3年以上続けてきて、それは、ただ、やってきただけです。

つまり、無為な行為です。

もしくは、純粋なる趣味です。

そうやって、ちょっと音痴が治った、音楽に親しみが持てた、とか、自然と得るものがありました。

それらは、自発的に得たものではなく、気づいたらなっていた変化です。

 

mika1161様は、重い腰を上げられて、ブログを更新し、サウンドクラウドに曲をアップなされた。

それらは、当然、無為な行為であり、やってもやらなくても同じことです。

あなたがすでにあなたのように、自己表現をわざわざしなくても、あなたは今でも自分を表現していますし、あなたはあなたとして存在し、あなたとして生きていますから。

 

わたくしは自分が喫茶店になりたいとは思いませんが、喫茶店でもかまわないとも思っています。

その時々で、水のように変化し、対応していければいいわけで、自己既定をしたいとは思いません。

わたくしはすでにわたくしなのです。

 

そういえば、わたくしの親友の家は、喫茶店のようになっているようです。

友人専用のカフェですね。

お茶やケーキなどでおもてなしをして、居心地がいいから、友人たちが好んで行きたがるわけです。

別にその親友は、カフェなどを目指していたわけではなく、そうなっただけのことでしょう。

ただ、当たり前のおもてなしの心で接しただけのことでしょう。

 

実際には、自分にとらわれているうちは、他人のことなど分かりません。

常に半歩引き、自分というものを空しくさせて、ただ居る。

それだけで、分かることはあると思います。

半歩引いて、対応できるようにしておく。

それは、相手の為にもなるでしょう。

 

mika1161様の場合、自分の気分などが変化してしまう、そのことへの思いもあるかと思います。

感じ方が変わってしまう、世界が変わってしまう。

そのことの不安、恐怖。

わたくしは、mika1161様ではないので、よく分かりませんが、わたくしのこのブログが気に入っているのは、一つの記事しか表示させていないところです。

また、リンクなどのサイドメニューがなく、とてもシンプルなこと。

一つしか記事が表示されないので、整合性、同一性などを無視し、矛盾していてもかまわないわけです(もともと矛盾していてもかまわないわけですけど)。

そういう意味で、自由ですね。

 

今のわたくしは、創作というものを、自己表現としてよりも、エンターテインメントとして取り組んでいます。

受け手によろこんでもらう。

それだけではストレスが溜まるので、こうしてブログをやったりもする。

文章は、主に、自己表現であり、ストレス解消専門です。

エンターテインメントとして音楽を制作していて、貴方たちに褒めてもらえる、いい曲だと言ってもらえれば、それがわたくしの幸せです。

 

わたくしは、表現で、ややこしいものを扱っていません。

もののあわれ、なるものは、ちっともややこしいものではない。

自分というものがややこしいだけです。

わたくしは、自分というものを扱いたいとは思っていません。

だから、ウケを気にする、受け手が不快であろうものは出来るだけ出さない、やらない。

わたくしは、褒められたいから、ウケを気にしているよりかは、いい作品は受けがいい、と思い、出来るだけいい作品を作りたいと願っています。

 

わたくしは、自意識というものが、邪魔なのだと思っているのかも知れません。

出来るだけ自分の気配を消して、自己表現に邁進しない。

世界に準じ、世界表現に邁進する。

それは、多分、自己否定ではなく、自分というのも、世界の一部なのだ、という意識なのだと思います。

そういう意味で、以前に比べて、謙虚になれたのかも知れません。

 

ゆしらくんの友人であり、mika1161様が尊敬しているとある方は、たいそう立派なシンセサイザーをお持ちで、ピアノを学んでいた時期(子ども時代?)もあり、音楽をやりたいという夢があるとのことです。

でも、やれない。わたくしのように音楽を作れない。

やれない理由はいろいろあるのでしょうけど、その方とわたくしの違いは、わたくしは、音楽とはこうである、という意識にとらわれていない状態から音楽を始めた、というのもあると思います。

なので、下手糞な電子ピアノの即興の手弾きを録音して、サウンドクラウドに毎日のようにアップすることが出来たのだと思います。

音楽とはこうである、というのがあって、自分のはこうではない、つまり、音楽ではない、と思えば、「音楽」に自分をチューニングする必要があります。

そうでなければ、10歳の息子でも、曲を作ることは容易でしょう。

わたくしは、いまだに、音楽とは何か、よく分からない、ただ、いろんな曲を実際に聞いていく中で、少しずつ蓄積していきました。

心の引き出しを増やしていく。

こうでなければならない、というのは、不自由なことです。