mika1161(救済、救いについての続き)

mika1161様

 

くどいようですが、もう少し、救済、救いについて、考えていきたいと思います。

救済には、主に二種類あると思います。

 

・社会的救済

 

・魂の救済

 

これらは、実際には、きちんと区分けされているわけではなく、混ざり合っている場合も多いのではないだろうか、と思われます。

いわゆる自己啓発セミナーなるものがどういうものなのか、詳しくは知りませんけど、社会的成功=魂の救済、ということもあるでしょう。

多分、痛苦というものがある。生きることが、自分であることが、堪らなく苦痛であり、コンプレックス、トラウマ、マイナス思考、などなど、居た堪れない、何とかしなければならない、克己、向上心、人生の壁のようなもの。

これを、内面から捉えるか、外面から捉えるか、ということの違いもあると思われます。

 

先日のわたくしのブログの内容は、主に外面からのことを扱っています。

とどのつまり、わたくしは、内面は扱わない、と言っているに等しいのでした。

細かい価値観の違いはあれど、mika1161様とわたくしの最大の違いは、mika1161様は人の内面の話をされていて、わたくしはそれをしない、ということなのだと思われます。

 

わたくしは人を見て、感じることがあります。

見えることがある。

これは、直感です。

それだけで十分だと思っています。

相手を理解したければ、見ればいい、声を聞けばいい。

 

つまりそれは、写真、音楽に通じることなのかも知れません。

 

mika1161様のつまづきやもやもやは、mika1161様のこととして、分離して考えていかなければなりますまい。

ただ、わたくしは、人の内面を扱いたいとは思わないので、それに、わたくしでは理解できないと思いますので、述べません。

 

わたくしの話は、だいたい、具体的な例、生活に根ざしたところになります。

意図的に、そうしています。

そうしなければ、概念的、抽象的な話ばかりになり、現実における帰着点を見失うやすいと思うからです。

mika1161様のお話が青いカバという神話だけではなく、実際に、青いカバが見えるのか、ということですね。わたくしには見える時もあると思いますし、mika1161様も見たり感じたりすることがあるかと思います。

 

例えば、目の前に絶望した人がいる。

その人に出来ることはありますか?

暖かい毛布をあげるぐらいしかないでしょう。

風にも負けず、雨にも負けず、ということしかないかとわたくしには思われます。

 

時に、距離を置く、ということも必要だと思います。

何かをするのではなく、何もしないことがいいこともあるでしょう。

 

お医者になる、福祉の仕事をする、そうやって、他人を助ける、助けたい、というのは、立派なことだと思います。

でも、それは、当然、当たり前のことでしょう?

それぞれが、当たり前のことを、当たり前にしていく。

 

具体的に言えば、相性とタイミングですね。

全ての人とわたくしが相性がいいわけでもないし、タイミングがジャストフィットするわけではない。

ただ、相性がいい人、タイミングが合う時がある。

その時々で、自分がやれることを当たり前にしていく。

それだけでいいんじゃないかな、とわたくしは思うのです。

毛布があれば毛布をあげればいいし、声をかけれるならば声をかければいい。

その時々で、お互いに無理はせず、やれることをしていけば、少しはお互いの為になるでしょう。

おもてなしの心、自分が蓄積してきたことを分け与える、シェア出来ることをシェアしていく。

 

先日の三人での電話もそうですね。

お互いにシェアしていく。

わたくしは、音楽を褒めてくれたことが、本当にうれしかったです。

それは、わたくしにとっては、とってもありがたいことで、でも、褒める方は、特別なことをしているわけでもない、何気ない一言でしょう。

何気ない言葉、何気ない行為が、人の心に大きく左右していくことはあります。

そういう積み重ねで、人は生きていけるのではないか、とさえ思えます。

 

もしかしたら、mika1161様の人生において、今後、救済に関わる具体的な出会いがあるのかも知れません。

それは、わたくしとではなく、別の誰かと、別の何かで。

 

貴方が人生を待っているのではなく、人生が貴方を待っています。

 

わたくしと救済の話をしていて、ピンとこない、ということは、まだその時ではない、わたくし以外の何かが待っている、ということでしょう。

 

わたくしは、良いも悪くも、もののあわれの人で、それは、ありのまま、ということに近いと思います。アナと雪の女王ですね。

素直に見ればいいし、素直に聞けばいい。自分に素直になって生きていければそれだけでいいんだ、ということですから。

それだけで救済になる人はなるでしょうし、そうでない人もいるでしょう。

人はそれぞれに抱えたもの、運命や使命があるはずです。

人生のテーマ。

多分、mika1161様で言うところの青いカバちゃん。

 

相性やタイミングがあって、自分とは合わない人や時がある。

そういう時は、自分が引く。頭を低くしてやりすごす。

出しゃばらない。出来るだけ謙虚な気持ちでいる。

無理に合わさないし、同情しない。

ただ、当たり前のことをしていけば、さりげなく、相手はわたくしに何かを与えてくれるでしょう。

 

与えることが与えられることとセットになっている、というのは、きちんと相手の心に届いた、ということなのではないでしょうか。

それが相手の心を動かしたのならば、相手は変化せざる得ない。

相手が変化することは、すでに、こちらにとっての恵みなのです。

変化して、関係性も変化していく。お互いに与え合う、シェアし合う関係性になっている。

尊重し、尊敬し合える関係になっているでしょう。

 

 自分にとってマイナスになる人と、無理に合わせる必要はなくて、一歩引いた感じにしておく。

わざわざ自分が不幸になる必要はなく、さりげなくスルーしておく。

やりすごす。

相手の全部を受け止める、それは愛なのかも知れませんけど、スルーすることも愛なのかも知れません。

また、スルーされることも、愛なのかも知れません。

そっとしておくことがいい時もあるでしょう。

 

相手の全てを受け入れることと、相手の全てに反応することは違って、自分が動じないことも大切だと思われます。

動かざること山の如し。風林火山

その時々で対応していく。

自分は世界の一部であり、だからこそ、自分は世界のようでもある。

これは、かなり困難な心境ですけど、そうなっていくには、毎日の小さな積み重ねをしていくしかないわけで、まずは、自分というものを捨てることだと思います。

自分というものを勘定に入れない。

ただ、世界は自分の限界にしかないので、自分のことをより理解し、自分の性質を知り、己の心に目を向けるようにする。

そうやって、いつも点検出来るように心がける。

 

自分を、家だと思えばいいわけで、相手をお招きする時、家にあるもの、家に即したおもてなししか出来ないのです。

家の雰囲気のようなものは、自分に反映した形で現れますので。

それで、気に入る人もいるでしょうし、気に入らない人もいる。気に入ったら、何度でも来るようになるでしょう。

家は、住む人の「文化」が反映されるでしょう。

「文化」が合わない人は、違和感があって、そぐわない。

では、知りべきことは、自分の文化でしょう。

それは、自分を自分たらしめてきた文化であり、自分を自分たらしめている文化です。

自分の性質とは、そのような文化の性質に等しいのかも知れません。

点検すべきは、自分の文化なのかも知れません。

自分を勘定に入れず、自分の文化を物差しにする。

その文化とは、もののあわれにも相応するのだろうなぁ、と思えます。

そうなって、ようやく、話は宗教や信仰心、祈りのようなものから違うレベルに変化していくのかも知れません。

 

祈りたい、祈る人になる、ということは、当然、自分を捨てることです。

自分を空しくさせて、他者の為に、社会の為に、世界の為に奉仕することでしょう。

祈る時に、自分というものを勘定に入れてはならない、利害で祈ってはならない。

エゴの一切を捨て去って、ようやく、祈ることが出来るでしょう。

それは、生半可なことではないはずです。