幸福と不幸、音楽について

幸福というものが、幸福と感じる状態ならばいい。幸福が一時のものであり、結局はぬか喜びの時、人はどのように処したらいいのだろうか?
不幸は、人を噛む。不幸は、人の心に傷跡を残す。不幸は、常に、その人の形を成す。
不幸もまた、一つの形態であり、状態なのだとしたら、人は不幸のままではいられないだろう。不幸に酔うのが人間ならば、幸福に酔うのも人間である。
幸福も不幸も、人の心の形態であり、形式なのだとしたら、あるいは、感情なのだとしたら、人は人に、気の持ちようだと言うだろう。ポジティブなのかネガティブなのか、それは、処世術の一つなのかも知れない。ネガティブシンキングは、不幸に対する一つの姿勢だと言うことも可能であり、人は幸福を望むよりも、幸福を望まないほうが、不幸が訪れた時に、傷を浅くすることも出来るであろう。幸福を望む心、そして、現実としての不幸との落差が、人を絶望へと追いやる。
幸福は永続的には続かない。そして、不幸も永続的には続かない。幸福と不幸は等価ではないが、幸福は一時しのぎにはなる。

音楽は果たして何なのか? 僕はやはり、そのことの答えを持たない。ただ、音楽とはリズムであり、構造を持っている、と思うばかりである。音の質ではなく、音楽の構造を持っていること、リズムがあれば、それは、どのような形であれ、音楽として聞こえてくる。
従って、雨水の滴る音、キーボードを叩く音、などのリズミカルな打音は、音楽でなくても、音楽として聞こえることもあるだろう。

音楽は、喜びも悲しみも、すなわち、幸福も不幸も、一時的な形態として、表現することが出来る。勇ましい気持ちも、繊細な心も、表現することは可能である。あとは、聞き手と音楽との距離や関係性などによって、音楽の質は変化する。つまり、聞き手によって、音楽の質は変化する。
また、聞き手の習慣などによって、音楽の親しみさの度合いも変化するし、評価も左右される傾向がある。
普段聞いているジャンルの、親しみやすい音楽の方が、聴き慣れていない分野の、例えば、前衛的な音楽よりも理解しやすいだろう。
また、聞き手が音楽に何を見出し、何を望み、何を欲するかによっても異なる。
つまり、それらを、音楽の質と呼ぶことも可能であろう。

音楽を、個人の表現だと捉えた場合、音楽を聴くことは、読書をすることに近くなる。音楽は常に、個人に向かって、繰り返し再生されるようになる。ここに他者は必要ではない。あるいは、多くの他者は必要ではない。音楽とは、聞き手の精神を反映し、制御し、不幸に対する癒し、囁きのようなものになる。
音楽を個別の曲に限定しなければ、例えば、雨音も音楽になり得る。

お酒の酔いによって、自身の不幸に酔い痴れることもあるし、不幸な現実を回避することもあるだろう。一人のお酒も、みんなで飲む酒もあろうだろう。音楽も同様に考えられるのかも知れない。

音楽家とは、お酒に酔う人ではなく、お酒を製造する人のことだと考えてみれば、重要なのは、聴き手に及ぼす影響、つまり、お酒の味であり、アルコール度数なのだということになるだろう。ここに音楽家の嗜好が介在するにしても、重要なのは、音楽家の個人的な嗜好なのではなく、お酒の質であり、お酒としての構造があるかどうかだ。

幸福が一時のものであるように、不幸も一時のものであるならば、それが気分によるものならば、現状だけに捉われるのではなく、変化を視野に入れておくことも大事だろう。それは、音楽における曲の変化にも対応すると思う。
 それは、天候のようなものなのかも知れない。

大雨が降っているならば、大雨に対する処し方があるだろう。台風ならば、被害を最小限にするやりかたがあるように。雨が降っている時に、すぐに雨が止むように願っても、止むか止まないかは関係がない。ただ、雨に濡れないように傘を用意するぐらいのことで。そして、晴天の時は、雨のことなどだいたい忘れているもので、人は、晴天ばかりが続くわけではなく、大雨ばかりが続くわけでもないことを、経験的に知っている。